第35章
エイプリルさんの心から
「昨日来るはずだったのに、どうしたんだ、エイプリル…?」
ああ、まだ名前を覚えててくれたんだ。エイプリルって呼んでくれた。それだけでめっちゃ嬉しいんだけど。ホント、もう一回、名前呼んでくれないかな。
「すみません、色々あって、終わったのが遅くなっちゃって。」
「まあ、せめて人事部に電話して報告すべきだったな。昨日、待ってたんだから。結局来なかったし。それに、あんた、部署のほとんどの人の連絡先知ってるでしょ…」
もう会社クビになったんだから、社員に電話する理由なんてないんだよね。ここに来たのは、約束の金を受け取って、会社のものを全部返却するため。会社のものは、ほとんどが携帯電話とSIMカードと、身分証明書で、もう受付の人に渡しちゃったけど。
もし金が出ないなら、それでいい。会社のものは返したし、もうここから出ていく。金が出ないって言うなら。
「…すみません。もしもうお金がなかったら、もう帰ります。携帯とIDカードは受付に渡しました…。」
なんで来なかったのか、グダグダ説明するのはもう嫌なんだよね。嫌な記憶が蘇っちゃうだけだし。
ほっといてほしいんだよね。
「人事の人が空いたら行くから、ここで待ってなさい。」そう言って、俺をもう一回見てから出て行った。
「ありがとう、フィリップ…」
そう言って見送った。フィリップは立ち止まって、振り返って俺をもう一度見て、頷いてから歩き出した。
本当はフィリップじゃなくて、「さん」って呼びたかったんだけど、癖ってなかなか直らないよね。
もうフィリップって呼ぶのが当たり前になっちゃって、考えなしに出ちゃったんだよね。
大丈夫なフリしてるけど、全然大丈夫じゃないんだよ。あの頃みたいじゃなくなっちゃったら、どうやったって大丈夫な気持ちになれないよね。
フィリップに会いたい。抱きついて、腕を回したい。
あーあ、フィリップ。俺の笑顔の源で、希望を与えてくれた人。ルイスのいじめに耐えられたのは、フィリップがいれば大丈夫だって思ってたからなんだ。
いつか俺を救ってくれる王子様だった。フィリップに全部バレる前に、ルイスを出し抜けるって思ってたのに。
できるだけ早く家に引っ越して、フィリップを呼んで、全部話そうと思ってたんだ。でも、嫌な真実が、思ってたより早くやってきたんだよね。
何回か、全部話すチャンスがあった。一回、デートに誘って、話そうとしたんだけど、結局、会いたい理由を話す代わりに、あの時はまだ全然考えてなかった仕事の話をしてしまったんだ。
結果的にその仕事の話でうまくいったからよかったんだけど、それでも、あんなに大きな秘密を抱え込んでたことが嫌だった。
ああ、許せない。俺には釣り合わない。俺みたいなやつなんかといない方が、フィリップは幸せになれる。
それに、俺らは同じレベルじゃないし、なのにフィリップは俺を選んでくれた。なんで俺みたいな奴に惹かれたのか、本当のところは分からないけど、フィリップと出会えたことに感謝してる。
一緒に過ごした時間は、全部宝物だった。一生忘れない思い出だよ。
誰にも涙を見られないように、顔を伏せて涙を拭った。失敗も、苦労も、見られたくない。
時間はあっという間に過ぎて、まだ人事の人も来ないけど、別に構わない。
この特別な場所で、一人でいると、色んな感情が込み上げてくるんだよね。
フィリップと一緒に過ごした短い時間で、すごく色々できたんだ。
自分の家を手に入れることができた。それだけでもすごいことなんだ。もしまた仕事が見つかったら、学校に行くためのお金を貯めよう。
家賃とか食費とか、色々貯めなきゃいけないから、ちょっと大変になるけど、給料次第だよね。
「神様…お願い。一人じゃ無理かもしれない。疲れたよ。全部に疲れた。ごめんなさい…本当にごめんなさい。色々間違ったこと、全部許してください。わざとやったこともあれば、子供みたいな間違いもあった。もう負け犬みたいだ。助けてくれる人が欲しい。神様…本当に必要だよ。家に帰りたい。認めたくないけど、家族に会いたい。お母さん、お父さん、兄弟に会いたい。家に帰りたい…落ちこぼれの娘としてでもいい。誰が悪いとか、関係ない。どれだけ酷いことされて、追い詰められて逃げ出したかなんて、どうでもいい。ただ、もう一回やり直したい。全部忘れ去りたい。疲れたよ…思ってたほど強くない。助けてくれる、すごく大切な人を失くしてしまった…もうこんなの嫌だ。勝つどころか、負け続けてるんだ…」
「まだいたのか。人事の人はまだ来てないぞ…」
慌てて顔を拭って、顔を上げた。
フィリップが俺に話しかけてきた。いつものように、物音も立てずに近づいてきたんだ。
「うん…うん、まだ待ってる。」
もう1時間以上も経ってるのに、座って昔のことを思い出したり、神様にお願いしたりしてたんだよね。
「なんで泣いてるんだ…?」フィリップがちょっと心配そうな声で聞いてきた。
「え? 泣いてないよ…泣いてないって。ちょっと、目をかきすぎて、目が痒くて涙が出ちゃっただけ…。」
「嘘つきだね。なかなか変わらないんだな。」
そう言って、俺のことを見つめた。
「…うん、そうだね、フィリップ。たまに、全然意味もなく嘘ついちゃうんだよね。嘘をつくと、問題から逃げられると思ってたけど、結局、状況を悪化させるだけだった。うん、実は泣いてたんだ。フィリップのことだけじゃなくて、自分の人生で起きてること、自分の選択ミスとか、自分が犯した間違いとか、色々考えたら、ちょっと感情的になっちゃった。でも大丈夫。フィリップの前で泣いちゃってごめんね。もう遅いし、人事の人、今日会ってくれるかな? それとも明日また来なきゃいけないかな?」
「分からない。もし待てるなら…」フィリップは深呼吸して続けた。「…昨日、ルイスを見たんだ。お前のこと探してたみたいで、午後に来たんだ。会社の住所を探してて、お前が金を取りに来ると思ってたらしい。お前が何か重要なものを持って逃げたって言ってたけど…。」
ルイスが俺を探しに来たって聞いて、本当にショックだった。
俺を追跡して、フィリップの会社に俺が行くと思ってたんだな。
なんで、俺が金と物を盗んだなんて嘘をつくんだろう。そんな金、ルイスにないのに。
「嘘だよ。何も盗ってないし、金も持ってない。ルイスが何を言ってるのか分からない。持ってた家財道具は全部自分で買ったものだよ…。」俺はきっぱりと言った。
「どこに持っていったんだ? 昨日の夜はルイスの家に泊まらなかったんだろ? もしかして、もう別れたのか? まあ、いいや、質問に答える必要はないよ。」フィリップの言葉は、すごく皮肉っぽく聞こえた。
そんな質問に、どう答えたらいいのか分からなかった。
急に沈黙が訪れて、俺は本当にフィリップの存在が嫌になってきた。俺が乗り越えようとしてることに、こんな風にグイグイ入ってこないでほしいんだ。自分の罪悪感だけで、十分苦しいんだから。
このままだと、今日のフィリップとの面会は、上手くいかないだろうな。