第46章
ごめん
彼(かれ)は頭(あたま)を下げ(さげ)、ゆっくりと私(わたし)の顔(かお)に近(ちか)づいてきた。「今(いま)でも君(きみ)に夢中(むちゅう)なのに、去(さ)るのが一番(いちばん)辛(つら)かったんだ、マルゴー」
気(き)がつくと、私達(わたしたち)の舌(した)は絡(から)み合(あ)い、キスが始(はじ)まった。私(わたし)の心(こころ)を酔(よ)わせるのに十分(じゅうぶん)な。私(わたし)の腕(うで)は無意識(むいしき)に彼(かれ)の首(くび)に回(まわ)し、髪(かみ)をきつく掴(つか)んで、キスを深(ふか)めるため彼(かれ)を引(ひ)き寄(よ)せた。昨夜(さくや)夢(ゆめ)に見(み)たキス。ずっと憧(あこが)れていたキス……
彼(かれ)はゆっくりと離(はな)れ、下唇(したくちびる)を舐(な)め、おでこを私(わたし)の額(ひたい)に凭(もた)せかけた。「愛(あい)してるよ。君(きみ)のために、一番(いちばん)良(よ)い男(おとこ)になりたいんだ。あの男(おとこ)に、俺(おれ)の息子(むすこ)の父親(ちちおや)になんてさせない。今回(こんかい)はね、マルゴー。簡単(かんたん)には諦(あきら)めないから」と、彼(かれ)はまっすぐ、そして力強(ちからづよ)く言(い)った。
***
一日(いちにち)はあっという間(ま)に過(す)ぎたけど、スムーズだった。あの日のこと、最後(さいご)にローレンスに会(あ)った日(ひ)のことなんて、全然(ぜんぜん)思(おも)い出(だ)せない。
これが私(わたし)が望(のぞ)んでいたことだよね?私達(わたしたち)の関係(かんけい)は終(お)わった。私(わたし)は決意(けつい)を覆(くつがえ)す気(き)はない。でも、時間(じかん)が経(た)ち、クラレンスが成長(せいちょう)するにつれて、胸(むね)に何(なに)か重(おも)いものを抱(かか)えているような気(き)がする。
「みんな、準備(じゅんび)OK?!」ピーターが元気(げんき)よく言(い)った。
「うん、OK!」私(わたし)は答(こた)えた。
ピーターはすぐにクラレンスを私(わたし)から受(う)け取(と)った。ドリスは今日(きょう)はお休(やす)みで、ピーターがクラレンスと私(わたし)を連(つ)れて今日(きょう)は散歩(さんぽ)に行(い)くことにしたんだ。それに、お母さん(かあさん)とお父さん(とうさん)は、大切(たいせつ)な出張(しゅっちょう)でいない。
「元気(げんき)?ちびっこちゃん」ピーターはクラレンスに優(やさ)しく話(はな)しかけた。
彼(かれ)が答(こた)えなくても、きっとピーターに会(あ)えて嬉(うれ)しかったと思(おも)う。クラレンスの荷物(にもつ)を持(も)っていたら、向(む)かってくる車(くるま)に止(と)められた。
特(とく)に、私(わたし)の前(まえ)で止(と)まったときには、心臓(しんぞう)が思(おも)いがけず早(はや)くなった。少(すこ)し後(あと)にドアが開(あ)き、ローレンスが出てきた。
私(わたし)は思(おも)わず口(くち)をあんぐりと開(あ)けて、彼(かれ)の、ちょっと無精髭(ぶしょうひげ)が生(は)えた、角張(かくば)った顎(あご)をじっと見(み)つめた。彼(かれ)が近(ちか)づいてくるにつれて、彼(かれ)の存在感(そんざいかん)に溺(おぼ)れそうになった。私(わたし)の顎(あご)はゆっくりと地面(じめん)に落ちそうになった。彼(かれ)の、とても魅力的(みりょくてき)で心(こころ)を奪(うば)う、柔らかくシャープな唇(くちびる)を見(み)ていたから。匂(にお)いを嗅(か)がなくても、絶対(ぜったい)いい匂(にお)いがする。そして彼(かれ)は、黒(くろ)いポロシャツにデニムのジーンズ、黒(くろ)い靴(くつ)を履(は)いていた。
その瞬間(しゅんかん)、彼(かれ)は私(わたし)に気(き)づいて、私(わたし)が顔(かお)を背(そむ)ける前(まえ)に視線(しせん)が合(あ)った。私達(わたしたち)の間(あいだ)には、磁石(じしゃく)がくっついているかのようだった。彼(かれ)の目(め)が近(ちか)づき、キスで彼(かれ)の唇(くちびる)がどう動(うご)くのか、そして彼(かれ)の手(て)が私(わたし)の体(からだ)の曲線(きょくせん)をどうなぞるのか、感(かん)じたいと思(おも)わせた。
「何(なに)しに来(き)たんだ、サアベドラ?」ピーターが私(わたし)の後(うし)ろで言(い)った。
私(わたし)は瞬(まばた)きして、すぐ視線(しせん)をそらした。
「息子(むすこ)に会(あ)いに来(き)たんだ」彼(かれ)は自信満々(じしんまんまん)に言(い)った。
ピーターは私(わたし)に近(ちか)づき、ローレンスを見(み)る前(まえ)に私(わたし)を見(み)た。「息子(むすこ)に会(あ)う権利(けんり)があると思(おも)うのか?」ピーターは率直(そっちょく)に尋(たず)ねた。
彼(かれ)の顎(あご)の筋肉(きんにく)が一(ひと)つ、苛立(いらだ)たしげに硬(かた)くなった。「僕(ぼく)は彼(かれ)の父親(ちちおや)だ、モンテベルデさん」ローレンスはニヤリと笑(わら)って言(い)った。
ピーターが歯(は)ぎしりして、何(なに)か罵(ののし)るのが聞(き)こえた。結局(けっきょく)、彼(かれ)は何も言(い)わず、私(わたし)の手首(てくび)を掴(つか)んで、彼(かれ)に帰(かえ)るように頼(たの)んだ。
ローレンスは顔(かお)を歪(ゆが)めて私(わたし)の手首(てくび)を見(み)つめた。私(わたし)は手(て)を引(ひ)き離(はな)そうとしたが、ピーターが私(わたし)をきつく止(と)めた。
「ご存知(ぞんじ)の通(とお)り、今日(きょう)は家族(かぞく)の絆(きずな)を深(ふか)める予定(よてい)なんです、サアベドラさん」ピーターは真剣(しんけん)に言(い)った。
「一緒(いっしょ)に行()っても、構(かま)わないかな?」ローレンスは私(わたし)の方(ほう)に視線(しせん)を移(うつ)して言(い)った。
彼(かれ)の目(め)は暗(くら)く、全(すべ)て読(よ)み取(と)ることができなかった。彼(かれ)とピーターの間(あいだ)で緊張(きんちょう)が高(たか)まるにつれて、私(わたし)の心臓(しんぞう)は一層(いっそう)激(はげ)しく打(う)ち始(はじ)めた。
「何(なに)だって?!」私(わたし)はピーターが私(わたし)の手首(てくび)をきつく掴(つか)むのを感じた。彼(かれ)は怒(いか)りを抑(おさ)えているだけなのは分(わ)かっている。
「ああ、そうだよ。息子(むすこ)と一緒(いっしょ)に行(い)くんだ」彼(かれ)の顔(かお)に滑稽(こっけい)な笑み(えみ)が広(ひろ)がった。
二人(ふたり)はしばらく見(み)つめ合(あ)ってから、私(わたし)はピーターに掴(つか)まれているのを感じた。
「いいじゃないか。外(そと)でご飯(はん)を食(た)べて、クラレンスをマニラ動物園(どうぶつえん)に連(つ)れて行(い)くんだ」彼(かれ)は最後(さいご)に言(い)った。
「分(わ)かった、じゃあ行(い)こうか?」ローレンスは興奮気味(こうふんぎみ)に言(い)った。
私(わたし)が答(こた)えなかったので、二人(ふたり)とも私(わたし)の方(ほう)を向(む)いた。私(わたし)は唇(くちびる)をきつく結(むす)んだ。私(わたし)はローレンスが私達(わたしたち)が散歩(さんぽ)に行(い)くと知(し)って、帰(かえ)ってくれることを願(ねが)っていたのに、何(なに)を言(い)ってるんだ?一緒(いっしょ)に行(い)きたいのか?
「行(い)こう、愛(あい)しい人(ひと)」ピーターは私(わたし)の耳元(みみもと)で優(やさ)しく囁(ささや)いた。
私(わたし)は頭(あたま)を上(あ)げ、深(ふか)く、力強(ちからづよ)く飲み込(こ)んだ。いつの間(あいだ)にか、彼(かれ)は私(わたし)をそう呼(よ)ぶようになったんだ?
私(わたし)の目(め)は瞬時(しゅんじ)にローレンスに飛(と)んだ。彼(かれ)の目(め)はとても暗(くら)く、殺意(さつい)に満(み)ちていた。突然(とつぜん)、私(わたし)の唇(くちびる)はとても乾燥(かんそう)し、すぐには話(はな)せなかった。それに、ピーターがなぜローレンスを今日(きょう)の私達(わたしたち)の仲(なか)に加(くわ)えることに同意(どうい)したのか、私(わたし)には理解(りかい)できなかった。
「さあ、どうぞ!」ローレンスはすぐさま私達(わたしたち)のために車(くるま)のドアを開(あ)けた。
「君(きみ)の車(くるま)には乗(の)らないよ」ピーターは、私達(わたしたち)の荷物(にもつ)を後部座席(こうぶざせき)に置(お)くよう主張(しゅちょう)した。
ローレンスは私(わたし)の方(ほう)を一(ひと)目(め)見(み)て、まるで私(わたし)の決断(けつだん)を求(もと)めているかのようだった。でも、前(まえ)のように、私(わたし)はただ視線(しせん)をそらしただけだった。
「分(わ)かった、乗(の)ってくれ」彼(かれ)はそう言(い)い、最後(さいご)に彼(かれ)は自分(じぶん)の車(くるま)に乗(の)った。
「行(い)こうか?」ピーターは言(い)い、私(わたし)のために静(しず)かにドアを開(あ)けた。
道中(どうちゅう)、私達(わたしたち)二人(ふたり)はずっと黙(だま)っていた。彼(かれ)がこんな風(ふう)に見(み)えるのは、私(わたし)には珍(めずら)しかった。彼(かれ)は面白(おもしろ)くって、特(とく)にクラレンスには良(よ)く話(はな)しかけていた。私達(わたしたち)がこんな旅行(りょこう)をするとき、彼(かれ)はいつも話(はなし)に困(こま)らない。彼(かれ)が自分(じぶん)の決断(けつだん)に不満(ふまん)を持(も)っていることは分(わ)かっている。クラレンスのために、無理(むり)をしているだけなのも分(わ)かっている。そして、彼(かれ)が私(わたし)の息子(むすこ)をどれほど愛(あい)しているか、クラレンスのために自分(じぶん)の幸福(こうふく)を犠牲(ぎせい)にできるほどだということも分(わ)かっている。
私(わたし)は彼(かれ)の腕(うで)を掴(つか)むのを止(と)められなかった。彼(かれ)は一瞬(いっしゅん)、私(わたし)を見(み)て、それからまた前(まえ)の道(みち)に視線(しせん)を戻(もど)した。
「分(わ)かってる。ただ、彼(かれ)が君(きみ)に無理(むり)やりする理由(りゆう)が分(わ)からないだけなんだ」彼(かれ)は苛立(いらだ)ち気味(ぎみ)に言(い)った。
私(わたし)は深(ふか)くため息(いき)をついた。彼(かれ)の腕(うで)をゆっくりと撫(な)でた。「今日(きょう)は楽(たの)しもう」私(わたし)は小声(こごえ)でつぶやいた。
彼(かれ)はもう話(はな)さなかったので、私(わたし)は道(みち)に注意(ちゅうい)を向(む)けることにした。ピーターから聞(き)いた話(はなし)から、今日(きょう)のデートは最悪(さいあく)な一日(いちにち)になるだろうと思(おも)った。
***
ピーターが言(い)ったように、彼(かれ)は私達(わたしたち)を動物園(どうぶつえん)に連(つ)れて行(い)った。彼(かれ)はいつもクラレンスを抱(だ)っこしていて、クラレンスは彼(かれ)が見(み)た様々(さまざま)な動物(どうぶつ)にとても喜(よろこ)んでいた。
私(わたし)は持(も)っていた携帯(けいたい)電話(でんわ)で、彼(かれ)らの写真(しゃしん)をすぐさま撮(と)った。そんな笑顔(えがお)は、今(いま)まで見(み)たことがなかった。彼(かれ)は明らかに楽(たの)しそうに笑(わら)っていた。まだ幼(おさな)いのに、何(なに)が彼(かれ)を楽(たの)しくさせるのか、分(わ)かっているようだった。
「彼(かれ)と遊(あそ)ぶ時間(じかん)は、どれくらいにしたい?」
ローレンスが私(わたし)の隣(となり)にいるのを感(かん)じて、私(わたし)はすぐに安心(あんしん)した。
「チャンスをあげただけ」私(わたし)は言(い)い、携帯(けいたい)電話(でんわ)の中(なか)の写真(しゃしん)を見(み)つめた。
彼(かれ)の重(おも)いため息(いき)が聞(き)こえ、私(わたし)の隣(となり)に座(すわ)った。「チャンス?それとも、彼(かれ)に罪悪感(ざいあくかん)を感(かん)じて、彼(かれ)から離(はな)れられないだけなんじゃないの?」
私(わたし)は彼(かれ)を見(み)た。彼(かれ)は腕(うで)を組(く)んで、私(わたし)の前(まえ)で真剣(しんけん)な顔(かお)をしている。彼(かれ)の充血(じゅうけつ)した目(め)は、私(わたし)に遊(あそ)ぶのを止(や)めるように言(い)っていた。
「クラレンスは成長(せいちょう)している。誰(だれ)を彼(かれ)の父親(ちちおや)に会(あ)わせたいんだ?」彼(かれ)は歯(は)を食(く)いしばって付(つ)け加(くわ)えた。